昭和50年03月01日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、貰いに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
神様が見ておいでである。又は聞いておいでてある。神様に笑われる様な、心の状態であってはならない。又行いであってはならない、一生懸命それに取り組ませて貰う。精進させて貰うと言う事が、信心なんですね。神様が見て御座る。神様が聞いて御座る。だからその神様に見られて、神様に不愉快な思いをさせる様な、又は嫌な思いをさせる様な事ではならないと思う。精進する事。
そういう一生懸命の精進をさせて頂く一つの、まっ稽古とでも申しましょうか、皆さんが謝恩祭あのうをされます。ね、宅祭りもう一月も前から一生懸命その事を祈り願われる。そしてその近付いて参りますと、本当に不浄が掛かってはならない。思いを清めた上にも清めさせて頂いて、神饌物などの購入やら又準備やらをなさいます。お家も矢張り清めたい。ね。所謂大掃除やらをなさって、神様へ心を愈々向けて行きなさる。
私は宅祭りと言うのは、そう言う様なまぁ心を使わせて頂く所に、値打ちがあると思うんです。ただ親先生に来て貰うてからお祭りばして貰う。なら信者さんが一杯参って頂くという、それだけでは私はお祭りをさせて貰う意義はないと思う。お祭りを仕える。所謂神恩報謝の心を、ね、どの様にかして現そうと言うのがあの謝恩祭です。昨夜永瀬さんのお宅の謝恩祭で、もう毎年恒例になっております。
もう本当になんと申しましょうかね。もう本当に思い込め思いを清め、そしてあのお祭りが成されたと言う様な感じのお祭りでした。もう本当にお祭りに合せて頂く者も心が和み清まる、そんな感じのお祭りでした。だからそういう心の状態を、言うならば何時も持ちたい。ね。それは形の上の事、御祭りを仕える様な形の事を毎日しなければならんというのではない。そういう心配りと言うか、ね、
心を使わせて貰う心が神様に喜んで頂く様な、それを永瀬さんあたりの場合は、親先生に喜んで頂く様な、親先生が少しでも喜んでもらえるようなお宅祭りが、つかえさせて頂たいと願われる、そういう心の状態の時に、私しは、しっかり信心の帯をせよという、そう言う時が帯が出けておる時ではなかろうかと、こう思います。ね。合楽で皆さんがお祭りを奉仕される、ご自分のお宅でなさる。もう何処のお祭りでも、やっぱりそういう一生懸命のものがある。
先日は二十四日の日は、大和さんのお宅の宅祭りでしたが、もう本当に永瀬さんのお祭りを拝まして貰って思う様に、どちらがどちらと言えない、その思いの込め方です。ね、そう言う風にそこ幾日間かではあっても、そのお祭りをお祭りと、いう謝恩のお祭りをさせて貰うその心を、心配りと言う様な状態の時がね、信心の帯が出けておる時。大体においてねそんなに思います。
昨日永瀬さんのお宅で、お話を聞いて頂いたんですけれども、例えば一つの形式ではありますお祭りと言う事は。けれどもあれだけの形式の事が成される為に心がこもる。又は心配りがある。ならしんせんものお供え物一つでもそうです。ね。ただたくさんのお供え物を買うて来ておいてから、大きな大盛りかなんかにどんともっていって、神様にと言う訳にはいけん。ね。
それぞれの御三方にそれこそ海川山のくさぐさの物を、一台一台綺麗に盛り付けさせて頂いて、しかも順序でもちゃんとね、海山川のもの海の物はまぁしかも、赤と青が揃えられ、ね、川の物はこう海の物はこうと言う風に、その順序立てがそういう一つのお祭りには、約束までがある訳ですから、ね、形式と言えば形式ですけれども、その形式を重んじながら、その内容を充実して行くと言う所に、信心が実意丁寧神信心というのがあります。ね。そういう言わば心配りね。
その思いと形が整うて行くと言う事なんです。ね。私は昨日キリスト教の神学書というのを、大変難しい文章で難しいご本です。キリスト教神学ですから。それを読ませて頂いとる中に、うーんこう言うのが御座いました。その事の内容を私は夕べも聞いて頂いた事でしたけれどもね。お互いが本当に信心させて頂いて何を願っておるのかと。昨日竹葉会でしたから、竹葉会の人達にもその、その事を聞いて貰ってあなた方は、ね、一生懸命此処で信心の稽古をするというが、何を目的で信心の稽古をするのかと。
本当にあのう人間が幸福にならなければならないからと言う事である。ね。そこでなら幸福の条件として、矢張りお金とか物質、健康とか様々な物に恵まれなければならないけれども、それは一つ一つの条件であって、ね、肝心要のは物は、物やら金やら健康だけでは人間は幸福になれないのだ。そういう幸福の条件が足ろうて来る事の為の芯になるものは、矢張り和賀心なのだ自分の心なのだと言う事。
ですから結局本気で和賀心を目指すのであり、本気で不幸せになる、言うならば幸福になれない、要素を持っておる心と言う物を、自分の心から取り除いて行かなければならないのだと。ね。それが信心の眼目なんだ。あの世にも持って行け、この世にも残しておけるのが神徳だと言われるが、それは言わば無形の事であって、実際はお話頂いても、本当にあちらに持って行けるのかどうか解らんのだ。だから現実にです、私し共がそのおかげを頂かなければならない。ね。
どの様な場合であっても、自分の心が有難い勿体無いと言う、生き生きとした心。所謂和らぎ喜ぶ心が、使えれる事の為に精進をする。ね。所がそれとは反対の心が起きて来る。そういう反対の心を本気で取り除かして頂くと言う、精進がなさらなければならない。それが信心の目的である眼目なんだ。そこに人間の幸福の条件と言う物が足ろうて来る。成程こう言う様な心一つで、こう言うおかげが頂かれるのであるから、その心に感じておるもの、それがお徳であろう。
なるほど是なら無形の物だけれども、あの世にも持って行けるだろう、又は子孫にも残ると言う事はこう言う事であろうと言う事になるんです。ね。確信ずけられて来る訳なんです。そう言うような事をね、キリスト教的にこう言う風に、説いてありますから、ちょっと聞いて頂ましょう。キリスト教神学よりと。いいですか神を愛し且つ崇拝する事が、崇拝する事からい出来るべきで、神をおそるる事からい出でてはならん。ね。是はどう言う事かというと、ね。
罰かぶっちゃならんから、信心すると言った様な事ではあってはならんち。この頃ご無礼しとるから、御気付け頂かんうち、お参りせにゃならん。と言った様な事ではでけん。出けんのじゃないそう言う事ではなくてです、崇拝する神を崇拝する。神様を有難いと思う。その神恩報謝の心がから、出て来る所の心であり、信心でなからなければならない。成程この神様は有難い神様であると同時に、また恐い神様だという風にも言われますけれども、恐いから信心をするというのでは本当のこっちゃない。
有難いから信心させて貰うんだと言う事を、一番に言ってます。ね。「心の純潔は神の身より見れば、」りり記と言う、リリとカタカナで書いて、記は記す。キリスト教の中にそのリリ記というのがある。あるんでしょうね。「リリ記に記されてある様なね、規則や修行の外的儀式より、遥かに有効であり」と書いてあります。有効と言う事は効き目があると言う事です。ね。
それは心の純潔、まー御道でいうならば、実意丁寧神信心と言う事でありましょうし、又信心には素直心が一番大切だと言われる事でしょうね。純潔心の純潔はです。ね。神の目より見ればですね、規則とかいうなら形式とか修行と外的儀式とね、より遥かに有効である。ね。その儀式とか修行とか、規則と言う様な物が、全然いけないと言う事ではないと言う事が記されてある訳。
だから今日さっき申します様に、ね、形式と言う物も大事だと言う事。けれどもそれよりもっともっと数倍の効果がある、有効であると書いてある。効果があるのは、なんというても自分の心の純潔だというのです。ね。人間の心が清められた上にも清められる。素直な上にも素直にならせて頂く。と言う事が有効だと。ね。効果があるんだと。内的ね。内です内的の御霊は、外的形式よりも大なる価値があると言う訳です。ね。
信心の一番有難いのは、だからというてんなら、もう心でする、神様だからなら例えばお供え物一つするでもです、成程教組様も仰る様に、庭のちり葉でも氏子の真心あればと仰るのです。だからんなら毎日木の葉ば持って来といてからお供えすると、言う様な事だけではいけない。矢張りそれには例外的形式よりも大きな価値がある、その内容よりもいや内容と共にです、矢張り形式、形と言う事も大事だと。「救いに達する道は一つしかない。思考してそれは邪まなる情欲。
羨望、憎悪、憤怒、及び復讐心を、和賀心より除くにある」とあります。今日の私は五十八節のこのご理解から、此処ん所を聞いて頂たいと思うです。ね。人が例え泥棒じゃというても、乞食じゃというても腹を立てな。しっかり信心の帯をせよと。神が見ておるとこう言われる。ね。だからしっかり信心の帯をすると言う事はどの様な事かというとです、ね、救われる道は一つしかない。思考してそれはよこしまなる情欲。いうならば我情我欲です。ね。羨望それは人を羨むと言う事です。
憤怒。それは、腹立ち怒り、怒りと言う事ですね。憤怒の情と申しますでしょう。次には憎悪。ね。相手を憎むと言う事です。及び復讐心をわが心より除くにあるとありますね、だから私しが思うのにね、和賀心になればおかげになるという和賀心とは、また我がお徳が受けられると言う意味で、私の心の中に、ね、我情我欲があり、羨望する心があり、憤怒の情があり、憎悪の心があり、復讐心の様な物がもし在るとするならば、あなたの今喜んでおるその心というのは。
もう既に和賀心ではないのだと言う事になるのです。ね、私の心の中からです、人を憎むとかはあー羨ましいなーと言った様ね、それやら腹立ちの心やら、我情我欲やらを取り除かせて頂く、ね。「あれからあんな事を言われててもう一生忘れん。一辺仇打たにゃ」と言う様な心の状態と言う様な物はね、もうおかげの受けられない心だと。人間が幸福になれない心なんだと。ね。
私し共の心からね、和賀心にあってはならない心を取り除かせて頂く事に精進すると言う事が、言うならば信心の目的とも言える訳なんです。又は幸福になる為にはどうでも其処ん所の、精進をしなければならないと言う事です。そして自分の心の中に、我情我欲がなくなり、全貌がなくなり、憤怒の心がなくなり、憎悪の心がなくなり。取分け復讐心の心なんかはさらさらない。
むしろそう言う様な例えばね、色々と腹の立つ事歯がゆい事を言われたり、仕打ちを受けてもです、むしろその人こそ神様だ。神様のお声であったんだと言う様に、むしろその人にお礼を言う様な心こそがです、おかげの頂けれる心なんです。ね。執念深い心やらはおかげが受けれないのです。そういう心をです、私共の心の中から、取り除くにあるとあります。又「己を憎む者さえも、ね、己を憎む者さえも、是を許すにある。なぜなればね、悪を愛すれば、悪を受くるは悪をなすに勝るからである。
愛と寛怒、かんとは寛いと書いて、ぬとは怒るという。愛と寛怒とが憎しみと復讐心とに変わるのである。即ち人は己のごとくその隣人をも愛すべきである」とあります。ね。キリスト教といいです。自分を愛する様に隣人を愛せよと言うのです。それは例えば自分に刃向う者ですらも、愛せよと言うのです。ね。私は「信心の帯をせよ」と言う事はそう言う事に取り組む事だと思うです。信心の帯をする。只一生懸命お参りする。拝まして貰うと言う様な事が、信心の帯で帯ではなくてです、私し共の心から、ね、
和賀心に邪魔になる心。おかげの頂けない、人間が幸福になれない心。それを人間が幸福になれない心を、はっきりと、ここでは言っておる訳ですね。こういう心があったら腹立ちの心が在ったり、憤怒の心が在ったりね、羨む心が在ったり憎悪の心が在ったり、復讐心やらの心が在ったりしては、人間は幸福にはなれないのだと言う事です。そういう心を取り除く事が信心なのだと言う訳なんです。そういう精進をすると言う事が、信心の帯をすると言う事になるのです。ね。
ですから愈々自分をそれこそ三つ見る事。見る事。ね。自分と言うものを本当に見なければ、自分の心の中にそう言う物が有るやら無いやら、それが解らない。汚い心が有る事が解らない。信心の帯をすると言う事を、今日はそういう私し共でいう、お道の信心でいうおかげは和賀心にありと言う事は、和賀心に頂くおかげと言うのは、もう御神徳だと。あの世にも持って行けれ、この世にも残しておけれる程しの物なんだと。ね。それを頂く頂けれるのは和賀心。和らぎ喜ぶ心なんだと。
だからその和らぎ喜ぶ心。和賀心を愈々求める為にはです、ただ和賀心に成りたい。和賀心に成りたいというておっても、和賀心に成れるものではない。自分の心からね、所謂我情我欲、憤怒の情、または憎悪の心。ね、または復讐心の様な心と言う様な物を、取り除かせて頂く事にある。そういう精進を今日はしっかり、信心の帯をせよ。それこそ泥棒と言われても、乞食じゃと言われてもです、あげな事言うたからあんやつが事一生その忘れられん。もうそれこそ恨んでやる憎んでやる。
そう言う様な心がある所か、例えばそういう悪口を言う者ですらも、愛する心という心が私は和賀心だと思うです。ね。あの人からああ言われたが、ね、本当に自分と言うものを本気で見極めさせて頂いたら、有るわ有るわ自分の心の中に、乞食根性がある泥棒根性が有ると言う事を、私し自分の心に発見する。そういう心を取り除いて行くという、精進こそがしっかり信心の帯をすると言う事だと、ね、しっかり信心の帯をせよと言うのは、そう言う事に取り組むことだと言う事を今日は聞いて頂ました。
どうぞ。